私たちが通う立海大付属中学校は、海に面した側に立っており、晴れた日には水平線の向こうまで、紺碧のすばらしい海が見渡せる。その見事さといったら、気が狂うほどで............................................



柳蓮二と私は、彼が小学校5年生でお隣に越してきてから、ずっと友人だ。初めて柳のお母さんが丁寧に包まれた菓子折りをもって、うちの家に引っ越しの挨拶に訪ねてくれた時、その彼女の横で清楚な姉と共に、ふたりでお人形のように立っていたことを覚えている。私は最初、お隣に越してきたのが美しい姉妹だったということに驚喜した。友達になってくれるだろうか?一緒に遊んでくれるだろうか?だから、ドキドキしながら初めてお気に入りの遊び道具をもってお隣に行った時(それはぬいぐるみとか、雑誌から切り抜いた洋服とか女の子らしい他愛ないモノばかりだった)それらを広げた私を見て、ちょっと当惑した顔で見つめる柳、その精巧な日本人形のような顔に潜む、鋭い両の眼差しを初めて至近距離で覗き込んだ私は「あ、なんだ。男の子だったんだ」と気づいた。その後「よく間違われる」と確かに少女のものではない、低い聡明な声が部屋に響いて、私は彼が間違いなく男の子なのだと確信した。
持ってきた少女グッズを所在なくかき集める私に気遣ったのか、柳は壁にかけられたテニスラケットを手にし、自分が引っ越す前はテニスクラブに在籍していたこと、クラブは辞めたが今でもテニスを続けていることを教えてくれた。ハッキリと大人びた口調で話す彼に私はすっかり感心した。まだ話していない部分もありそうだったが、恥ずかしくも女の子だと勘違いしていた男の子が、怒りもせず、引っ越し前の東京での生活を普通に私に語ってくれたことに感動して、何も余計な質問はせず私は黙って聞いていた。その日は、家外の空き地で柳とテニスをして遊んだ。ラケットは初めてもつし、テニスの経験もなかったけれど、幼い体つきに似合わず笑いながら軽々と私に球を返してくれる柳をみて、この子はテニスが上手いんだなと私は思った。本当はあの時、柳はまだ全然手加減してくれていて、実際は私が思うよりもずっとずっと強いことを知ったのはもっと後、二年後に立海大付属中学校に入学してからだった。

春、夏、秋......................
三つの季節がすぎ、自分の家に帰る度に、柳の家から流れる美味しそうな夕飯の匂いや、たまにお裾分けを母親代理で持ってきてくれる柳(これで柳はうちの母のお気に入りになってしまった)私の部屋の窓からみえる柳の部屋のゆれるカーテン、テスト前はいつもより遅くまでともる灯り、最初は遊びに誘う時、律儀にお互いの家のチャイムを押しあっていた私と柳がいつの間にか、子供らしい冒険心を発揮して裏庭や二階の屋根伝いに部屋を行き来するようになるまで、そう時間はかからなかった(これは礼儀正しい柳よりも私の方が圧倒的に多かったが)それらすべてのお隣さんごっこが日常となる頃、小学校卒業が迫った冬、お互いの窓伝いに宿題のやりとりをしていた時、ノートに視線を落としていた柳がふいに「俺は立海大付属の中学へゆく。もどうだ?」と聞いてきた。私は手元の宿題をみながら「柳が行くんなら、行くよ」と返した。とても単純に、素直に『柳と同じ中学校へ行く』というアイデアが楽しそうに思えたのだ。でもすぐに(ちょっとまてよ?)と思い、顔をあげて「でも家がお隣なら別に学校が離ればなれになっても同じようなもんだよね?」と言った。柳は一瞬笑って「そうだな」と言い「だが...........何にしても別離はそれほど良いものではない」と、意味深に、何かを知っている風にポツリと付け足した。その柳の様子が、最初の日、柳が語ってくれなかった部分の東京での生活をなんとなく窺わせていて、私は急いで「行くよ立海、勉強がんばろうね!柳!」と言った。すぐに「俺の心配はいいから、はまず自分の心配をしろ」と苦笑まじりで返されて、それで和んだ場の雰囲気がさきほどの柳の意味深な台詞の不安感を雲散した。その日から、ふたりで夜遅くまで勉強した。




中学に上がった柳はすぐにテニス部に入部した。
なんとか晴れて柳と同じ制服に腕を通せた私は、新しい環境に期待で胸をふくらませつつも、まだ部活を決めかね、柳から聞く血も凍るような厳しい立海テニス部の練習内容に、身を震わせていた段階だった。その中で柳は上手くやっているようだった。ある日、クラスに遊びに行ったら「蓮二、レギュラー獲得おめでとう」と柳に声をかける、体格の良い男の子の賞賛で、私はそれを知った。すぐに隣にいる私に「これは失礼した、女子と話し中だったか」と律儀に詫びてくれたその子の名前は「真田弦一郎」といった。同じテニス部だ、と柳が紹介した。スッと伸びた姿勢、意志の強そうな瞳、真田くんは柳よりも数段背が高いが、並ぶとなんとなく雰囲気が似ていた。でも、もっと佇まいがなんていうか、こう...........ハードコアだ。「お互い、だろう?弦一郎」と返す柳の言葉に、真田くんも相当なテニスの熟練者なのだとその時、私は悟った。「昇格」ではなく「獲得」という勝利を自らもぎとったような真田くんの言い方に、生半可なやりかたで得た地位ではないことが想像でき、私は気圧された。今、目の前で笑っている柳はおかっぱ頭のまま、初めて会ったあの日と変わらない風にみえるのに。そうして「ああ、だがまだまだ敵わんよ、あいつには」「ああ、そうだな」と殊勝げに、しかし闘志に目を輝かせるふたりを見て「この2人よりも強い人がいるんだ.........」とさらに私は驚嘆した。


入学式から数ヶ月が経ち、着慣れない肌触りの制服、真新しい教科書、中間試験の範囲、怖そうな女の先輩に目をつけられない方法...........それらのうざったい呪縛からようやく逃れ、中学生活に慣れ始めた女の子が気にすることと言えば、やっぱり同じ教室で過ごす「異性」のことだ。私のクラスでもどの子が一番カッコよくて、どの子の目がクールで、どの子が運動神経が良くて素敵かの話で、休み時間や放課後は持ちきりだった。このガールズトークの最中に、私は柳と真田くんが話していた件の男の子「幸村精市くん」の存在を知った。テニスの腕もさることながら、女子人気でも最終的に満場一致で「やっぱ幸村くんがイイよねー」と溜息をつかせていた凄腕の子であった。その他にもテニス部のレギュラーメンバーはこういうお話の常連なのだが、なぜか柳が話に出てくる時は、あのおかっぱ頭と低い身長のせいか「可愛い」とか「髪サラサラ羨ましいー」とか女子に向ける風な賛辞が多くて、賛同していいのか苦笑いするべきか私はいつも迷って、結局黙った。(「購買で背が低すぎてパン買えなかったんだよーウケるよねー?」という話がでた時はさすがにフォローしたが...........)そうやって女子の会話の輪から、少し離れた私は心中で「もっとがんばってモテててよ柳...........」という小学時代からの友人としての勝手な願いと、まだ誰のお目当てにもなっていない未だ「お隣さんの柳」という存在にホッと安心する自分を発見して、その矛盾する二つの想いに、何故か自分自身で後ろめたくなるのだった。




夏が来た。
うだるような暑さの中、あいかわらず柳は襟足で切り揃えられた髪をゆらして、テニス部の練習に励んでいた。変わらず細い体躯のままだったけれど、心なしか、柳の足元、日射しにのびる影が長くなった。地区予選、関東大会、と次々と勝ち進んでいた立海テニス部が次に目指すのは全国制覇だった。主要メンバーの柳は毎日練習に借り出され、遅くまで家に帰らないことも多くなった。それを寂しく思いつつも、私は私で忙しい柳には頼れないと、夏休みの宿題の超難問はがんばって全部自分でやっつけた(当然のことなんだけど.......)けれど、いつも寝る前、私の部屋に明かりがまだついていることを確認した場合、柳はときどき窓越しに数分だけ会話をもちかけてきた。真夏の夜、静まった世界でする他愛ない会話は何故かいつもより少し神秘的で、涼しく鳴く虫の音を聴きながら、見あげればふたりの頭上には夏の大三角形がきれいに光った。疲れているけれど、勝機にのっている柳の顔は輝いていて、星光の下、とても頼もしく思えた。


は全国大会には来ないのか?」

「うん、ごめん...........その日家族で法事に参加しなきゃいけないんだ.」

「いや、いい。関東大会には来てくれたんだ」

「すごかったね、柳」

「言われるほどでもない」

「ううん、すごいよ。2年生や3年生の先輩ですら歯が立たなかった相手をさ!」

「ほとんど弦一郎と精市のお陰だ」

「うん、真田くんと幸村くんもすごかったけど、勝てたのはやっぱり柳が頑張ったからだよ」

「そう言ってもらえるとありがたいな」

「全国大会もさ、勝てるよ。絶対に」

「まったく...........なぜお前はそんな自信満々に言えるんだ?」

「なんか今の柳の顔みてると、そんな感じがするんだ」

「そんな感じか...........フッ.........」

「...........鼻で笑うトコじゃないよ.......柳」

「確かに今年の立海に死角はなく、勝てる確率も俺の中では高いとふんでいる」

「でしょ?数字の話もそうだけさ、やっぱそんな感じするよね?」

「そうだな...........ここは一つ、その「感じ」とやらに俺も賭けてみるか」

「うん!」

その日、柳はいつになくリラックスした面持ちで窓をしめた。


全国大会決勝戦の当日、お坊さんのお経の真っ最中に、携帯のメール受信通知がぶるる!と鳴り、柳の勝敗が気になって気になってしかたなかった私は、こっそりと携帯をひらいて覗き込んだ。そこに柳から件名なしで「勝った」の3文字だけを発見した時、思わず「やったーーーー」とその場で大声をあげた。 もちろんその後...........大変顰蹙を買った。


はやる心をおさえ、家に帰る頃、道のむこう側からちょうど運良く同じく帰宅した柳と鉢合わせできた。言葉もなく、遠くからぶんぶんと手をふる私に柳は片手だけあげて、満足げに濁り拳のまま手をふった。その手にしっかり握られたテニスボール。その幸運の一球が柳の勝利を決めたんだな、と確信した。夕日に照らされた柳は彫像にように強く、しっかりと立っていた。遠目でも細い体躯が勝利の余韻で、光に映え、格好良かった。 そうして「おめでとう」の言葉を言おうと、柳に駆け寄った私は、このひと夏の間に、初めて自分が彼を見上げなければならないことに気がついた。




成長期の少年らしく、その名の柳の木の如く、ぐんぐんと柳の身長は伸びた。それに比例して校内での彼の人気もその成長に似つかわしく、増していった。もちろん「立海テニス部の全国制覇を牽引した」という勲章も手伝っての人気ではあるが、友人の贔屓目でみても、主要メンバーの証である威圧感を与える黒いリストバンドをさっと手首につけ、涼しい眼差しで、群衆の中から頭ひとつ抜きん出た柳は目立っていた。休み時間や放課後の会話でもちらほらと、本気で柳に想いを寄せている節のある発言をする女の子が増えた。そんな時、やはり私はどうしていいかわからず黙るのだが、困ったことは前とは違い、黙った私には「ねえ、前からと柳くんて仲いいけど、やっぱり付き合ってるの?」とストレートに返事に困る質問が飛んでくることだった。「ちがうよ」と否定すれば、逆にそのハッキリした口調を勘ぐられるし「家がお隣なだけだよ」と言えば、柳の学校外でのプライベートの様子を、みんな興味津々で聞いてきた。モテはじめた柳を友人として誇りに思わなくもない。けれど、どっちにしろ(面倒くさいことになったなあ............)と私は溜息をついた。しかし一番面倒くさく感じたのは、矢継ぎ早に飛んでくる色めいた質問によって、今まで気のいい友人で、兄弟みたいに冗談ばかりいってた私と柳が、いきなり「男」と「女」という生き物であり、恋愛という未だ知らない未知の可能性が、甘やかに、残酷に、2人の足元にもひろがっていると自覚させられることだった。
教室からみえるグラウンドでは数人の男子がサッカーをしている。いつもは教室で静かに本を開いているはずの柳も、真田くんか丸井くん(この子もテニス部の主要メンバーらしい)に誘われたのか、今日はテニスボールをサッカーの球に変えて、ゴール付近にいた。「蓮二!行ったぞ!」という真田くんのかけ声に呼応して、柳は足元のボールを蹴った。「入れ!」と瞬間的に友人を応援する気持ちで祈った私は、その瞬間、球技で汚れないようめくりあげられた袖から覗く、日焼けしていない柳の白い腕が、存外男らしくガッシリとしていることを認めて、球がゴールに入るのを確認するよりも先に、目をそらした。




めずらしく柳が早く部活を終えたので、それならと「一緒に帰ろう」と誘った日のことだった。


とこうやって帰るのは久しぶりだな」

「うん、二ヶ月ぶりじゃない?」

「正確には、二ヶ月と一週間と三日ぶりだ」

「ハア...........そうですか」

「小学時代はこうやって帰るのが日課だったようなものだが」

「柳テニス部だし、生徒会も始めたし、忙しくなったもんね」

「お前はまだ部活は始めないのか?」

「あんまりピンと来るものがなくって」

「それは残念だ。例えば運動系の部活動は、スポーツによる人間形成にも役立ち............」

「ハイハイ!わかりましたよ」

「まあ、お前がまだふらふらしているからこそ、こうしてふいに昔のように懐かしく一緒に帰宅する事もできるわけだが」

「(ふらふらって...........)」


柳の言い方が微妙だった私は、言わないでおこうと思っていた本音を思わず吐露した。


「...........あんまり誘わなくなったのは、気を使ったからてのもあるけどね」

「なんだ、それは?」

「柳しらないの?」

「ふむ........心当たりはないな」


真面目に言ってのける柳に、私は少し呆れた。


「柳、最近女子人気すごいんだよ?好きな食べ物とか趣味とか聞かれちゃってさ」

「ほう」

「一緒に帰って、変に嫉妬されるのもアレだし」

「俺は気にしないが」

「柳は気にしないけど、私は気にするんだよ」

「フ...........」

「笑い事じゃないって。女子の噂の影響力はすごいんだから」

「人の噂など流しておけばいい」

「だからっ...........!」

「くだらんな」

バッサリと切り捨てる柳に、私はカチンと来て足をとめた。まるで私の気遣いが無駄みたいな言い草じゃないか。柳は不思議そうに、不機嫌な顔で歩くのをやめた私を、数歩先からふりかえった。


「............もうこうやって一緒に帰るのは、今日で最後にした方がいいと思う」


今度は柳が不機嫌な顔になった。
「なんでそうなるんだ?」とか「お前には呆れた」とか、そういういつもの柳らしい苦言がすぐ飛んでくるかと思ったら、黙っている。あ、やばいかも、と私は慌てた。柳がお得意の理性的な小言を言わない時は、彼が本気ですこし苛立っている時だ。焦りながらも、もう言ってしまったことは取り返せないし、まだ怒っていた私もそのまま沈黙を決め込んだ。どれぐらいの時間がたっただろうか。空気が固く、柳はまだ眉間に皺をよせている。襟足の髪が風にふかれ、さらさらと、表情とは逆に優しげにゆれていた。その光景を見つめていたら、私は胸の中に今までは知らなかった、痒いような、甘いような、それに必死で反抗したいような、言葉にできない感情が生まれてゆくのを感じた。思いがけず皮肉ぽい言葉が口をついで出た。


「柳、なんで髪きらないの?」

「なんだ、急に」

「............変だよ」

「...........」

「男の子にみえない」


それは嘘だった。

呼び止める柳の声を無視して、私は走って家に帰った。
その日は、部屋のカーテンを最後まで開かなかった。




あれから柳とはあまり話さなくなった。柳は部活で忙しいし、私は私で他の友達と遊んだりと意識的に柳を避けていた。たまに廊下でコチラを見つめる柳の視線を背中に感じても、知らないフリをした。それでも気になって何度かふりむけば、そんな時に限って柳の方がもうすでに違う方向をむいていた。家に帰っても、隣の窓を気にすることなく、お互いの部屋のカーテンは閉められた。最近の柳の様子を放課後の女子の噂で聞くようになった時は、さすがに「寂しい」と感じた。そんな日々が、数ヶ月続いた。




その日は神奈川でも記録的な集中豪雨だった。
うっかり傘を忘れた私は、びしょぬれで家の玄関にたどり着き、うっかり家の鍵も部屋に忘れてきたことを思い出して地団駄を踏んだ。今日に限って、両親も夜遅くに帰る予定だった。なんてバカなんだろう...........。濡れた制服と鞄の水滴をはらって、溜息をつきながら狭い玄関前にたたずむ。ザーザーと降り止まない雨。気温は下がり、辺りは刻一刻と暗くなっていった。肌にはりついた制服が気持ち悪く、 寒い...........。私は出来るだけ体温を奪われないように腕を体にまわして地面にうずくまった。ぶるぶると震えながら隣をみれば、柳の部屋の灯りがみえた。その灯りを見つめながら結構な時間、私は迷ったと思う。けれど最後に恐ろしい雷鳴が空にひびき、前よりも大量の雨が足元を占領しはじめた時、私は決心して腰をあげた。


二、三度チャイムを押しても返事はなかった。「柳だけなのかな?」と思った。たまに二階の柳の部屋からは呼び鈴が聞こえにくい時がある。あきらめて私は玄関前から裏庭にまわった。柳の祖父母によって、綺麗に手入れされた日本庭園だ。雨で視界の悪い中、私は細心の注意をはらって、灯籠や庭石などに触れないよう歩いた。縁側にたどり着いて「柳ー」と呼んでも、閉め切られた障子の向こう側はシーンとしていた。とりあえず縁側に座り、簡単に髪をまとめて、ピンで上にあげた。髪の水滴が廊下につくといけない。濡れたままの制服は重たく、体にぴったりとはりついて嫌な感触だった。最近膨らみはじめた胸に、つけ慣れないブラジャーが苦しい。「柳ーお邪魔してるよー」ともう一度言って、太腿の上までスカートをたくしあげて、水滴をしぼった。 靴下を脱ぎ、靴にまでずっしり染みこんだ水を捨てる。素足になると、ホッと気がラクになった。(明日学校にきてくまでに制服乾くかな?)(靴って洗濯できるっけ?)そんなことを考えながら、肌にまとわりつく水滴をぬぐっていた私は、スッと障子が開き、近づく影に気がつかなった。

ふいに顔をあげたら、背後に知らない男の子がいた。
その顔をみて、私は声を失った。

清らかに、うなじまで切り揃えられた髪。白い顔には、幾筋か切られたばかりの髪の断片が絡み付いている。瞬きをしたその子の睫毛の上から、さらりと一筋の髪が床に落ちた。すっきりとした首筋の上から覗く耳は、完璧な形を描いていた。

私は呆然と、目の前の美しい男の子をみつめた。


「やな............ぎ...........?」


無言で柳は私を見下ろしている。心乱されたように視線が、私の足元にそそがれている。行儀がわるかったかな?と慌てて足を閉じたが、どうやらその視線は、濡れて、生暖かい水滴がつたう太腿に這わせられているようだった。急に、肌が透けた制服が恥ずかしくなって、ぎゅっと胸元で手を握りしめた。それに触発されたように柳が一歩、近づいた。太腿に這わせられていた眼差しが、ゆっくりと上下し、湿気で潤った私の唇の上で、とまる。空気がじっとりと重たい。何故か、柳も私もお互いから目をそらせない。まるで幼い殻から脱し、初めて異性をみるようだった。呼吸が浅く、だんだんと息が苦しくなる。柳は沈黙したまま、私を見つめている。その視線は見た事もない熱を孕んでいる。そのまま柳は、静かに屈み、手でゆっくりと私の濡れた髪に触れた。鳥肌がたった。ビクッと反射的に避けようとしたら、首筋に手をまわされ動けなくなった。あれ?柳の力てこんなに強かったけ?こんなに柳て体が大きかったけ?こんなに乾いた掌をしていたっけ?こんなに.............................?柳の本心、私の躊躇い、すべてがこの瞬間、暴露された。超えてはならない一線、それが2人の間に横たわっていた。その一線を柳は、容易く成長した彼の強い力で砕こうとしている。心の準備もまだできず、怖くなった私は目をつぶった。顔に影が落ち、唇に柔らかい感触が近づく。友人でお隣だった柳、10歳の頃から知っていた柳、このままずっとその関係が続くと思っていた大好きな柳......................!


「.......................い、い.........やだ」


ピタっと柳の動きが止まった。
そっと目をあければ、すぐ眼前にすこし傷ついた顔があった。その脆さに、私は心が痛んだ。切られた新しい髪は、こんなにも彼に似合っている。怯える私の瞳を見つめたまま、フッ........と柳が視線を下げ、自嘲げに笑った。そうして指で、雨粒のせいで額にはりついたままの髪を、一筋優しくはらってくれた。そのまま何事もなかったかのように、柳は立ち上がった。奥からふわふわとしたタオルを持って、柳は帰ってきた。受け取りながら、私はなんとかこの場をたもつ会話を探した。


「似合ってるよ.............その髪型」

「そうか...........?」

「なんで切ったの?」


わかっているだろう?という素振りで、柳は視線だけコチラによこした。ズキン、とまた心が痛む。雷をともなう豪雨は和らぎ、庭には小雨が降りはじめていた。力なく、タオルで髪を拭きながら私は訪ねた。


「また............前みたいに戻るのはムリかな?」

「それは無理だな」


その言葉に、今度は私が傷つく。


「すまないが、俺が無理だ」


障子によりかかる柳に、勇気をだして私は聞く。


「............いつからなの?」

「そうだな............」

「お前が俺を女だと勘違いし、信じられない風にじっと俺の目を見つめてきた瞬間」

「あの、最初の日からだ」


タオル地を通して、ぼやけた世界の向こうから、柳はとても優しく笑った。





あの雷雨の日から数日経って、私は部活に入部した。
そのことを報告したら、満足げに柳は教室のど真ん中だというのに、頭を撫でてくれた。恥ずかしさで消えそうになった。髪を切った柳は前よりもずっとモテていた。予想通り、背後であがった女生徒の悲鳴に私は「やれやれ」と思ったけど、次にカノジョたちがしてくる質問に、前のようには答えないだろうということが自分でもわかった。立海テニス部の関東大会優勝がきまり、今年も全国制覇にむけて柳は忙しくなる。私は遅ればせながら入った部活で、一から新しいスタートを切る。それぞれ日常に忙殺されるだろう。前みたいにお互いの窓伝いに話す機会も減るかもしれない。けれど、私にはなんとなく表面的なそんな別離よりも、あの日、降り止まない雷雨の中、ゆっくりあがった自分の体温、近づく柳の心臓音、触れてくれた掌の熱さ、それらの瞬間が、もっと未来の私たちを繋げてゆくと、祈りにも似たように、強く確信していた。




私たちが通う立海大付属中学校は、海に面した側に立っており、晴れた日には水平線の向こうまで、紺碧のすばらしい海が見渡せる。その見事さといったら、気が狂うほどで..............................................でも、それもいつか時の流れによって変わってゆく。


何もかもが変化し、二度と過去には戻れない


あの日、廊下に落ちた、柳の濡羽色の髪。
それが目に浮かぶ度、私はこの言葉を思い出す。






120113